廃校に思う

かなり長いこと眠り続けていた。このまま眠り姫になってしまおうか、馬鹿な考えしか浮かばない。お布団と一体化したい。

なんとか起きて、お散歩しに行った。前日の疲労感を疲労感で迎え撃つために。隣の校区の小学校まで歩いた。縁も所縁もないが、その校区内に書道教室がありそこへ通っていたので、多少はその地を知っている。今はもう書道教室も、隣の校区の小学校も廃校になってしまっている。山奥の小学校が町の小学校へ統合されるなんてよくある話。

小学校の水飲み場に腰を下ろしグラウンドを眺めていた。誰もいない小学校は雑然としていて、植えられていた植物も枯れ放題になっているし、校舎の中に入れなかったが窓から覗く限り、蜘蛛の巣が張っているところも多く見受けられた。知らない小学校なのに少し侘しさを覚える。私が通っていた小学校ももう直ぐ廃校になるらしい。子供が少ない学校を存続するのには維持費や人件費がかかり過ぎるのだろう。それよりも町の小学校に統合してスクールバスを出す方が費用を抑えられる。自分の通った小学校がなくなるのは、例えそこに苦い思い出があろうと一抹の寂しさを拭えないものだ。隣の校区の小学校を眺めて自分の通っていた小学校に重ね合わせてみる。誰も手入れをすることのない冷たい校舎の淋しさに心の痛みを覚えた。

今日、寝すぎてしまったので積読タワーを消化する予定が台無しである。返却期限の迫る本もあるというのに……。時間は取り返せない。併合される小学校の予定も積読消化できなかった今日の日も。なんとも侘しいことである。

0508

 

車を運転しているとき、目の前に虹が出てたので写真を撮りました。しかし後から見返してみると彩度が落ちて、虹だと判別できませんでした。あの虹は幻だったのだろうか。

 

仕事の難しさに直面しました。大きな失敗をしたからではありません。対応に困る些細な出来事が積み重なって、そのことについて後から内省して劣等感や自己嫌悪に陥ることが多いのです。自己反省の日々……。その悩みについて考えをまとめたいなと思い、引用したい記事もあるのですが、それは日を改めて書くことができればなと思います。

仕事帰りに買い物して羊毛フェルトを買ってみました。材料と道具が揃ってセット売りされているものを選びました。上手くできるといいな。

 

 

0507

 

GW明けの初出勤は憂鬱であるな。ああ、この感情の延長線上に待つ五月病という大きな淵がぽっかり口を開けて待ってるのだな、この淵を上手く飛び越えるか、深く沈みこまないうちに抜け出せるかが分かれ目である。何か良い策はないだろうかなどと考えあぐねがら一日を過ごした。残念ながらなにも浮かばなかった。悪い頭脳を憎々しく思いながら、新たな不安がよぎる。五月病を上手く乗りこなしたからと言って問題は解決しない。というのも仕事上外に出て作業することが多い。そのため、これからやってくる夏にがとてつもない脅威であることを発見する。今より強力になった日差しがレーザー光線のように我が表皮を襲う季節。その季節の到来に恐れおののく。日に焼け表皮が黒こげになってしまう。いや、その前に溶けてしまうかもしれぬ。おお、恐ろしき夏よ!対策はないのか。①日焼け止めを塗る。②こまめな水分補給。③帽子を被る。これくらいしか思いつかない。貧困な思考しかもたぬのだ。ちまちまとこれらのことを行うしかないのか。ええい、しゃらくさい。抜本的な改革はないのか。……ひきこもることに勝るものは何もないのでは???

ひきこもるのは何の解決にのならなかった。つい最近までの自分に戻るだけである。ようやくバイトとはいえ仕事を見つけたことによって社会的承認が得られるようになったではないか。それをすべて捨てる気にはならない。ちまちましていようが面倒であろうが対策をこまめにやるしかない。そして、日光に浴びることを、憂鬱になりがちで精神的な体調を崩しやすい己への救世主であるという認識に変えていくしかない。太陽の光を浴びてセロトニン生成!鬱な感情を阻害するセロトニンセロトニンを作るのだ、貧困な頭脳よ!……そう言い聞かせて仕事をするしかないのだろう。

 

映画三昧の日

 

本日は映画三昧の日なり。

レンタルの期限が迫っていたので映画を一気見しました。3本見ましたが一日で見るには脳にも心情的にも少々キャパオーバーな感じですね。見た映画のまとめとして、書き留めておきます。

 

 

 

ヒミズ』 

ヒミズ コレクターズ・エディション [DVD]

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悲運というべきか、不合理というべきか、悪い方向に進んでいくストーリー展開にいたたまれなくなりました。あと、大震災を受けてストーリーを大幅に変更したそうで、復興と更生の筋書きに持って行った強引さが少々荒いかなって思ってしまいました。伏線の回収しきれてないところは尺の関係上仕方のない部分なのかしらん。少し残念。しかしながら役者の演技はとても素晴らしく引き込まれ胸を打たれました。茶沢さんを演じた二階堂ふみさんがとてもチャーミングなキャラ設定が可愛かった。尚且つ彼女自身の演技も見どころ。原作が漫画のようですね、読んでみたい。

 

 

カナリア』 

カナリア [DVD]

カナリア [DVD]

 

 作中のカルト教団オウム真理教がモチーフ。カルト教団の解体後の散り散りになった家族を探し出すため少年が奮闘する話。カルト集団の回想シーンは生々しくて恐ろしいと感じました。カルト教団は信念を掲げ理想を実現しようとしますが、カルト教団も現実と同じ規則の中でしか存在できない。この事実に行き当たった時の信者達の行動の対比が印象的でした。あと、「子供は親を選べないし子供も親を選べない」この言葉は重みがありますね。割と淡々とした映画なので少々ダレる感じもありますが、子供たちの演技がすごいです。(ラストシーンの飛躍が多少引っかかります)

 

 

宇宙人ポール』 

宇宙人ポール [DVD]

宇宙人ポール [DVD]

 

  タイトル通り、宇宙人と遭遇します。この宇宙人陽気でジョークが得意で破天荒なキャラがとても良い。そんな宇宙人、ポール(宇宙人と思えない名前!)に翻弄される地球人たちのSF友情コメディー。ポールの設定が細かく、さらに作りこまれているのでとても愉快で見どころが満載でした。SFの知識が全くない私でも楽しめましたが、SF愛が散りばめられており、知識があればもっと楽しめるのではないかと思いました。

 

 

映画の一気見はきつかったですが、楽しめました。

明日からまた仕事である現実が辛いです。怖い怖い。しかも、明日は重役の方との初対面もあるそうなので、今からお腹がキリキリ痛んでいます。怖い怖い。

 

幸福の匂い

目を覚まして、隣に体温をもった、君がいて、それだけのことで少し安心する。たとえいつかは一人、個体としての終焉が待っていようとも、他者の体温に触れた事実は、その変えられようのない事実は、心の奥底で暖かく微かな光を放ち続ける。

お昼前にようやく起き上がって、ご飯を食べる。脂の多いラーメンと唐揚げ、ご飯のセット。食べきれない。そのあと本屋に行ってぶらぶらして、書籍を一冊購入。積読タワーの建設に勤しむ。

部屋に戻ってDVDの映画を見る。心地よいメロディーに乗せ友情と郷愁、愛情と心の傷を描いたもの。二人で映画を見るという何気ないことがとてつもない幸福のように感じる。感傷に流されて何度も涙腺が緩み、見終わると号泣した。映画が良かったのと、降り積もった孤独が涙の堰を切らせた。弱音を吐いて、泣いた。さみしいと言った。暖かい涙の線。

涙の数だけ強くなれる。だとしたら私はとても強くなっているはずだ。たくさん泣いて、泣いて、いつも泣き虫で、全然強くなれている気はしない。それでも隣に相変わらずいてくれる君が優しさをくれる。その優しさを掻き集めて、ちょっとだけでも強くなれたら、いいな。

帰りの電車でこの日記を書いてる。電車の前の席に老夫婦が仲睦まじく座っていた。旅行にでも行ったのだろうか、旅先の思い出話をしている。幸せな匂いを感じた。

お互いの温もりでお互いを癒して、またそれぞれの生活に戻る。限られた時間しか会うことができない。それでも会える時間を大切にしたい。幸せな一時、君で充電する。幸せな匂いで満たされてる。

短かったけど、良い旅でした。ただ、お昼のラーメンは失敗だ。少し、お腹が痛くなってしまった。

分かち合う孤独と寂しさ

イベントがたくさんあるGW。田舎者には関係なくて。でもやはり寂しくて、一人の部屋で孤独と戯れる。さみしいよ、死にたいよ、うわあん。

連絡があって、成り行きで会いに行くことにして、電車に乗り込む。ゆらゆら揺れ、読書と惰眠と。夜の帳が下りる頃、ついに目的地。

特にすることもなく鬱な気持ちを分けあって、ネットを眺める。寂しさは二等分とか誰が言ったのか、個人の感情は個人のものでしかないのに。それでも、少し楽になれるのなら負担を分け合うのも悪くはないのだろう。

せまい毛布を二人で分け合えるならそれで良くて、それが良くて。

選択と責任

 

今日はお洗濯をして、お部屋を掃除して、映画を見ました。

こうやって文章にすると充実した休日感が出ますね。

 

 

でも何故か満たされないような言い知れぬ物悲しさがあります。

昨日の日記では何もない平穏な日は贅沢だと言っていたのに、その贅沢にもう飽き始めてる。

贅沢な悩みです。

ああ、贅沢すぎて奇行に走りたくなる。

 

何も予定がないと、何をしても良いはずなのに、何をしたら良いか分からなくなります。

そうして何もできず無為に時間を潰してしまう。

計画的に時間を使うのが苦手だというのもありますが、本当に何をして良いのかわからないのです。

選択をするのが苦手です。そしてその選択が正しいのか不安なのです。

極端な例を言えば、喫茶店などで自分の食べるメニューでさえ決めれないくなることもあります。

些細な選択なのに、大きな選択を迫られているような錯覚に恐怖することもしばしばあります。

 

選択するのが苦手なのは、その選択した先の未来を引き受ける覚悟が欠如しているから。

自分の人生のはずなのにどこか他人事のように感じることもあります。

 

選択が正しいか不安なのは、他者に非難されることを恐れるから。

常に正しいことを他者からの承認によって確かめようとしてまうことがあります。

 

自己肯定感や自尊心が低いとよくあってこういうところに弊害が表れているのだと思っています。

選択は難しい。その場で正解が分かるのはクイズぐらいで、人生は答えのない選択ゲームだから辛い。

でも今の自分があるのは、過去の自分の選択の結果なのだと思います。

他者の視線に怯えながら、承認を欲しがりながら、選んできた道。

過去の選択が良かったかなんて全然わからない。

しかし、過去の選択の結果を受け入れ、未来の選択の責任を引き受けていくことが生きるために大切なことなのだろうと思います。

 

 

 

 せめて、食事くらいは簡単に決めれるようになりたいです。

小さな選択からやって少しずつ、自己肯定感を積み上げていきたい。