映画『17歳のカルテ』 感想

 

17歳のカルテ』を見ました。

 

 

精神病棟に入院した少女の話。

それでも、精神的な疾患を異常なものであるという認識に基づいて作られたものではなく、心の揺れ、特に思春期における葛藤や迷いを誰しもが経験する可能性のあるものとして丁寧に描いているところが印象に残りました。

 

主人公のスザンナがアスピリン1瓶とウオッカ1本を飲みほして病院に担ぎ込まれるところから始まります。最初は何故自分が精神病棟に入らなければならないのかと反抗するのですが、病棟の入院患者との交流を通して次第にそこが心地の良い場所になっていくスザンナ。

深夜に入院患者数人とと一緒に病棟の裏道を通り主治医の部屋に忍び込み自分たちの診断が記されたカルテを盗み見るシーンや、パニックに陥った患者を歌で励ますシーンは青春の一コマという感じがして精神病棟を舞台になっていることを忘れそうなほど微笑ましいシーンでもあります。

また、恋人のドビーがスザンナのもとに訪れ外へ連れ出そうとしますが、彼女はそれを拒みます。このシーンでスザンナが精神病棟に馴染んでおり、同じ入院患者に仲間意識が芽生えていることを明示しています。冒頭の入院のために病院に向かうシーンで運転手の壮年の男性に「(精神病棟に)馴染むなよ」という言葉を投げかけられていたのにもかかわらず……。

精神病棟を居心地の良い場所であると認識することは、外の世界から目を背けてしまい自身の心と向き合い外の世界に復帰することへの大きな妨げになることです。精神病棟は安住の地ではなくいつかここを退院し社会に戻る時を迎えるのです。それには、自分の内面と向き合わないといけない時がいつか来ます。自我の揺れ葛藤、悩みから簡単に逃れることは出来ず、向き合うことでしかその辛さから抜け出すことはできないと思います。その時に自己が脅かされることに恐怖し自己あるいは他者に暴力的に振舞ってしまったり、破滅的な行動にでてしまうこともあります。しかし、その自我の揺れを上手くコントロールすることで生きていくことができるのです。そんな悩みを抱える人たちや多様な人が形成する社会が必ずしも正しいものなのではなく、それと上手く折り合いをつけていくことが大切なのだと思いました。

 

作中でも、心の悩みを抱える患者の内面を暴き出すシーンがあります。一つは甘やかされて育ったお父さん子のデイジーの内面を患者のリーダー格のリサによって暴き出されるシーン。デイジーはお金持ちのお父さんに甘やかされる子として描写されますがその内側には父親との性行為に依存している内面がありました。デイジーはその内面を暴かれた衝撃に耐えかねショックからの逃避として自らの命を絶ってしまいます。

もう一つはリサをスザンナが暴き出すシーン。リサは精神病棟で自己中心的な振舞をし他の患者や時には看護婦にも支配的な態度を見せ、且つ脱走を繰り返したり、自由な振舞いで他人を翻弄する反社会的な側面がありました。しかし、リサは脱走してもいずれは連れ戻され精神病棟でしか生きられないのでありリサの自由は見かけだけの虚実であることが暴き出されます。さらに自分に死んでほしいと他者から言葉をかけられないのは自身がすでに死んでいるからであるという真実を突き付けられリサは泣き崩れます。

その後スザンナは回復し退院の時を迎え、病棟のベットで寝ているリサに話しかけ別れを惜しみます。リサはスザンナに「私は死んでない。」と告げるのですが、この言葉がリサの生きる意志を感じて胸に迫るものがありました。

 

自身の内面が暴き出されそれを向き合うにはとてもつらく苦しいことでもあります。死を望んでしまうくらいの強い衝撃があるのです。しかし、それを認め向き合うことでしか生きる強さは生み出されないのだと思います。

困難にぶち当たりそれを克服する力が欲しいときに見たくなる、そんな一作でした。