桜は散ってしまった

厳しい寒さに凍え、白銀に覆われた世界からゆっくりと雪が溶け出し暖かな日差しが差し込みはじめ、一つの季節の終わりと新しい季節の幕開けに心躍らす3月下旬。人々は長かった冬の寒さから解放されて、草木が新しい息吹を誕生させる春の訪れを喜ぶ。特にあの木々の間を隈なく桃色が覆うあの光景を待ち望んでいた。そろそろ、桜が綻び始めるのだ。南のほうから徐々に咲き始めゆっくりと北上する。テレビでは一早く開花した桜を映してその美しさを、やってきた春を伝える。そんなテレビ画面を見ながら、晴れたらお花見に行きたいな、などと暢気に思っていた。

しかし、桜の開花はとても短い。さらに桜の咲く頃は気温の乱高下が激しく突然暖かくなったと思えば、急に気温が下がってしまうこともよくある。春は高気圧と低気圧の狭間でせめぎ合い気候が安定しない。そのため気候が優れず、雨が降り出す。桜は春の雨に見舞われその花弁を散らしてしまう。

そして私は桜の見ごろを逃してしまったのだ。気が付いたころには、連日降り注ぐ雨とともに散り、葉桜の状態に成り替わってしまった。見たいと心では思っていたもののまだ後でも大丈夫だろうと先延ばしにした結果、桃色に咲き誇る姿を見る時期を逃してしまった。

 

桜と日本人の心は密接に結びついているのだろう。パッと咲き誇りそれでいて散り際は実に潔い。そのさまは儚さの象徴であり、さまざまな歌や物語に取り入れられている。桜を見るとしんみりとするのは何故であろうか。その儚さゆえであろうか。それだけでなく時期的なものも影響を与えいるのだろう。桜の咲く頃は年度の切り替わり同時期である。学生であれば桜が咲く頃に学び舎を卒業し、新たな学び舎に入学するかあるいは社会に出るか、それぞれの新しい道が開ける時期なのである。その時期を桜とともに迎える。その出来事も人々の心に習慣として深く刻まれているのではないだろうか。

 

桜はもう散ってしまった。過ぎ行く季節は取り戻すことなどできない。本日、私のもとには応募していた会社からの不採用通知が届いた。桜とともに新たな道を開き進んで行くことができなかった。私は何度春を逃してしまったのだろう。桜とともに切り替わる社会のレールからはみ出して2年ほど経ってしまった。一度はみ出したレールに再度乗るための軌道修正をするのはとても難しい。身にひしひしとその事実を感じる。レールを脱線した時から、潔く桜のように散ってしまえば良かったのではないかという気持ちを幾度となく反芻してきた。今回の不採用通知もその思いを強めるほどの力を持っていた。それでも、私はまた明日からハローワークと自宅の往復を始めるだろう。散ってしまった桜が月日を経て再度花を咲かせるように、私もまだあきらめてはいけない。また桜とともに新しい季節を迎え、それを喜べる時が来る。そう思うのだ。